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2015
02.14

Simplicity Parenting

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息子を来秋からPreschoolに行かせようと思って見学したひとつもそうだったのだけど、Woldolf、日本で言うシュタイナー教育の学校に興味を持ち読み始めたのが、そのPhilosophyをベースに親の在り方について書いているSimplicity Parenting(2009, Kim John Payne, M.Ed with Lisa M. Ross)。

いろいろなるほどってことが書いてあるけれど、印象が強いのは、overschedulingとmediaについての考え方。最近の子供はとにかく忙しすぎるというもの。Woldolfは遊びをものすごく重視していて、小学生のうちは宿題も出さないと言うスタイルなのだけれど、それはおいておいても、最近の子供は遊ぶ暇がないほど、日々やるべきことに追われているという。確かにそうかも。こちらでは、子供に習い事をさせると、もれなく親がすべて送り迎えすることになってしまう。私が子供の時なんては、そろばんとかピアノとか自分で歩いて行っていたけど、この環境ではそうは行かない。親が子供に「もっと、速く、早く」という期待をかけて、あるいは暇〜ってなってしまうのを恐れていろいろさせた結果、家族全員がOvershedule地獄にはまって、良かれと思って始めたことで子供が多大なストレスを感じてしまうということ。そういう部分は確かにあるかも。

次いで、気になるのがmedia使用。この筆者もWoldolfも家のスクリーンの数はできるだけ減らすことを推奨。Woldolfでは平日はテレビもパソコンも使わないようにと、確か小学生(もしかしたら中学生までだったかな?)には指導している。その裏には、もちろんテレビによって奪われる貴重な遊びや想像の時間をつぶさないこと、子供を消費の罠に嵌めないことなどがある。少なくとも子供が小さいうちは極力テレビは見せないのがいいらしい。というのも、生まれて2年の間に、脳の発達が著しく、それは環境から得る刺激ややり取りと強く関係しているのだそう。脳の発達に重要な刺激、またはやり取りは次の3タイプ:①親はじめ他の人間とのやり取り②物を触ったり、動きを感じたりするなど自分の環境を操作すること③いないいないばあのような問題解決活動だそう。こういったやり取りはテレビからは決して与えられない。。。確かに

と、フムフムとうなずかされることがたくさん書いてあるのでした。もっともっとあったはずなんだけど、とりあえず最近読んだところのちょこっと紹介でした。

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2013
10.29

イマーノ

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忌野清志郎のファンだという友達にはこれまでにも会ったことがあったけど、ちょっと変わったロック歌手という位の印象しかなくて、この人が本を出してるなんて全く知らなかった。

原発問題にものすごく関心が高いってことを発売禁止になったことで有名な「サマータイムブルース」と「ラブミーテンダー」で知って、テレビドラマに出ている姿を何度か目にして、という程度しか知らないまま訃報を聞いた。

こちらで知り合った友達にも清志郎のファンという人が居て「瀕死の双六問屋」という本を借りた。語り口調が独特で、なんだか一瞬訳が分からないようなんだけど短い一話を読み終わる頃には、彼のメッセージがなんとなく伝わってくる感じ。そして、何と言っても言葉に力がある。胸にグッと来る言葉の宝庫という印象。

そんな言葉がたくさんあったけど、印象に残ったものと言えば。。。
「本当に必要なものだけが荷物だ」
「どんな金持ちでも権力者でも朝が来ることを止めることはできないのだ」
「外見をきれいにして何になる。中身をみがく方が大切なことなんだ。それは世界の平和の第一歩なんだよ」
「苦みのない人生なんてきっとつまらない人生だからね」
「右にどんどん行ってみろ。やがて左側に来ているのさ。地球は丸いからね」
。。。など結構インパクトがある。

漫画やイラストもたくさん入っててその隅にはイマーノというサイン。誰のことかと思ったら、イマーノっていまわの、つまり本人かあと気付いた。「俺は芸術家になりたいと思っているのさ」ってあったけど、この人ってロック歌手だけではなかったんだなあと今更ながら知った。




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2013
10.18

私小説

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水村美苗の「日本語が滅びる時」は、5年ほど前に書店で手に取って感銘を受けた1冊。

その割に他の著書に触れることがないまま今に至ってしまったのだが、先日、大学の図書館で「私小説 from left to right」を見つけたので借りた。以前にもパラパラと中は見たことがあって、英語と日本語で書かれていること、日本の小説には珍しくその副題にもある通り横書きで左から右へページを繰って行く装丁。そしてこれもまたそのタイトルの通り、筆者自身が登場するまさに「私小説」である。

筆者は12歳で駐在員の父親の仕事で家族と渡米した。そのまま父親が現地企業に転職し駐在員と言えばせいぜい4−5年で帰国となるところをそのままアメリカに居残ることに。そのような背景が彼女のアイデンティティーや日本とアメリカ、そして日本語と英語に対する思いをとても複雑なものにしている。

『私は日本人なのであり、大人になったら祖国に帰るのだから、大きなお世話ではないか。移民の子供と同じように教育の機会を与えてくれたアメリカに対して、まさに移民としてあつかわれるのが不服だった。(中略)東洋人である私には同化が可能ではないという思いがあった。そしてそれは、英語ヲ勉強シテイルベキデショウといわれても、東洋人である私は英語を正当的に継承することができないという思いと同じであった。(中略)太平洋を越えてやってきた東洋人はまだまだ異郷からの客人でしかなかった』

生まれた国から新しい国へ自分の意志とは関係なく移住すること、そしてそれが起こったのが12歳という多感な時期であることも、殊の外複雑に筆者をこの両国、両言語の狭間に押しとどめてしまっている気もするが、英語の環境に次第に慣れる中で失って行く日本語、自分の中の日本がどんどん色あせて行きながらも今身を置くアメリカの人間にもなりきれないアジア人、東洋人の姿を持つ自分。これはきっとその最中に居る者にしか分からないのだろうなあ。

興味深いのが同じような境遇に同時に置かれた姉奈苗と筆者との日本に対する思いの示し方の違い。筆者は日本文学に傾倒し、日本語で小説を書くという形で日本や日本語への思いを真っすぐに示す。本人が言うところの「日本に焦がれ、日本語に執着し続けた」のだ。

『。。。純血主義者となったのは、日本人の血以外のものが流れていないのを、日本人であることの証しにしたかったからであった。じきに私は日本人であることの証しは血にはないことを知り日本語に固執した。』

姉の奈苗はと言えば、話す言葉には英語が頻繁に混ざり、また素行や恰好においても完全にアメリカナイズされていると周りは見ている。でも、開けてみたら、彼女も実はずっと日本に帰りたくて仕方がなかったと言う。日本は2人にとって離れていても離れられない故郷、でも同時にどういう因果か長く住んでしまったアメリカでの時間や生活という現実との狭間、ジレンマからそれぞれがそれぞれに似たような思いを持ちながらとても違う形でそれを表現している。

違う文化、言語の中に生きるというのはなかなか複雑なことである。それがある文化言語の中で人格形成がなされる10代を過ごした後で自分の意志ではなく異なる文化、言語の中に放り出された時のその複雑さはより一層のものだろう。うちも日本人の子供をこのアメリカという文化、英語という言語圏の中で育てて行くことになる。水村美苗のケースとはまた異なるが色々複雑な思いを持って行くのだろうということは想像に難くない。


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2013
10.03

うるさい日本の私

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は、中島義道という哲学者の著書。

ネットでこの人がニートについて語るインタビュー記事を見て、面白い人物だなあと思ったのがこの本を読んだきっかけ。

タイトルを見ただけでは一体何の話だか見当がつかなかったけど、読んでみると、「騒音」でうるさい日本に筆者である私がうるさく立ち向かっていくというまさにタイトル通りの内容。

それにしても、日本という国が音にあふれかえっていると言うのは事実らしい。私自身もそうだけど、多くの人がそれにすっかり慣れてしまっていてほとんど気にもならなくなってしまっているだけで、実は、日本のどこへ行っても私達は音、音、音の洪水の中にいる。

以前教えていたポーランド人の生徒が、それについてスピーチをしたことがあった。この生徒は、日本の電車に乗ってどうしてアナウンスがひっきりなしに流れているのかを不思議がり、「電車とホームの間があいています」って情報はわざわざ言われないと分かりませんか?と嘲笑気味に語っていた。言われてみれば確かに。

しかし筆者の騒音との「戦い」はなかなか凄まじい。電車内、駅構内、バスの車内、海岸沿い等々でスピーカーを通してひっきりなしに流れ出る迷子案内、ご近所のお店情報、注意事項に耐えられないと、管理事務所へ押しかけ、それがなぜそれらをそこまでしなければならないかを学者ならではの理論を掲げて抗議する。当然それらのアナウンスをやめさせるために。

まあ想像はつくが、多くの場合、丁寧に対応してくれた後「上と相談の上後日お返事します」というフレーズで終わることが多いらしいが、そのまま煙に巻かれそうになることがほとんどとのこと。まあ、想像に難くないけど。ただ、この人の凄いところはそれで終わらないところ。何も変わらない、何も言ってこない場合は、煙たがられようがなんだろうがしつこくしつこく通うらしい。その精神力脱帽もの!けど、そのしつこさに途中思わず笑ってしまいそうにもなる。

このような事態になる理由は日本人の他力本願な甘えの構造に尽きるというのが彼の結論。自分の意志を自分の言葉ですぐ隣の人間に伝えられないコミュニケーション能力の欠如を、第3者にアナウンスと言う形でやってもらうというのがこの「騒音」がそもそも存在する理由。例えば、携帯電話を電車内で使っている人を迷惑と思うなら直接その人に言えばいいのにそれはしたくないから、アナウンスにやってもらえれば楽って心理。なるほど。

アナウンスする側も、しなかったために後で問題が起きて訴訟でも起こされたら困るから、とりあえず言っておくんだって。それにしても、「電車とホームの間があいています」ってアナウンスがなかったから落ちてケガしたんだって文句言って来る人がいるのかとも思うけど、そういう人もいないことはないというのが怖いところ。だから、駅も可能性が少しでもある危険についてはあらかじめ手を打っておこうとしているうちに我が日本はこんなにも電子音に溢れる国になってしまったのだとさ。。。くわばら、くわばら



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2013
09.27

美男の立身、ブ男の逆襲

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大塚ひかりの「美男の立身、ブ男の逆襲」を読んだ。

この人が書く文学作品から歴史を読み解くコラムをいくつかネット記事で読んだことがあった。
コラムで読んだのは、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの話だった。

図書館で大塚ひかりを検索すると、この1冊だけが引っかかって来たので早速check out.
ふむふむ、男性の見た目や背丈への評価が時代によって移り変わっていることが、源氏物語や平家物語などなどの文学作品に見られる人物描写から細かに分析されていて面白い。

平安時代には、とにかく男性に女性的美しさが求められたと言う。と言うのも、藤原道真が娘を天皇家に嫁がせて裏で実権を握ったように、娘側の家族、つまり女性が力を持っていた時代だった。そんな時代背景を見れば男性に力やらお金などは求めないが、美しさだけは譲れないという女性心理にも納得。

源氏物語は平安時代を代表する作品だが、光源氏もこのような男性として描かれている。ただ、それ以前までの作品との違いは、光源氏については背丈についても言及されていることだと言う。これは、美しさだけではなく男性の肉体的強さが求められるようになる平家の時代への移行と捉えられるそう。その後台頭してくる平氏は、貴族の習慣を大いに保つ武士、即ち貴族と武士の両方の要素を持ち合わせていた。

それが完全に武士の時代に移行する頃には、ガラッと作品の中で力を持つ男性達の様相に変化が起きる。見た目の美しさが語られることは減り、背丈やがっちりした肉体を持つ者が成功者として描かれるようになる。当然ながら、戦いに勝つことが権力の象徴となれば、美しいけどなよなよした男性が立身出来るはずもなくなる訳だ。

このような中で一時は皇族に嫁ぎ世継ぎを生む女性が大きな力を持っていた時代から、自らの力で戦いに勝った男が権力を持つ時代に変化したというのは、まとめてしまえばそりゃそうだろうって話なのだが、様々な作品の中の描写から分析して行くとその辺の変化がいつ起こり、そしてどうなり、またそれがどういう時代背景の元で起こっているのかなどが見えて来る。

それにしても、昔の文学作品がかなり開けっぴろげなのに驚く。
東海道中膝栗毛の弥次喜多コンビもそうだが男色なども普通に登場するし、源氏物語も言ってしまえば光源氏の不倫物語みたいなものだし。そういう作品を一つ読んで、「ふーん、そういう話」で終わってしまうのがまあ一般的な読み方なのだろうけど、大塚ひかりのように様々な作品をある視点から切り込んで行くという読み方もまた面白い。


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